昭和40年09月15日 夜の御理解



 先ほど、御道の新聞を読ませて頂いておりましたら、四国の一常太郎という先生の、事が出ておりました。大変お徳を受けられました先生です。この方が三十二年間、日記を書き続けておられました。その日記のなかに生き生きとした先生の信心が、簡潔に書きしたためられてあると、そのなかの二、三を拾うて書いてございました中に、あるとき非常にひどい、下痢で悩まれたことがあったと。
 夜の二時ごろ、その便所におい出られた。用を足されてから、ふっと気付かれたことは、中に使い紙が入ってなかったと。やっぱりその慌てておると。本当に忘れてきたということは不調法だけれども、さあどうしようかと。皆起こしてからその紙を持って来てもらおうかと思われたけれども、辛抱された。ね。神様は何事も、辛抱が第一と仰るから。もう朝まで誰かがここへ来るまで辛抱しようと思われた。
 もう寒朝の二時過ぎ、まわったころだった。それがその朝の四時ごろになりますと、愈々冷えてくるから、その辛抱する心も、くじけがちなんだけれども、そこんところを本気でそれを思われたとたんに、外からある人が紙を持って来てくれたという、お話が書いてあるんですねえ。ま実を言うとそういうところから、先生の信心を思うことが出来ます。成程起こせば起こせるんだけれども、それまで辛抱しようとこう。
 勿論それっきりその、下痢がぴしゃりと止まったと書いてあった。おかげを頂いておられる。そういう時にです、例えばそういう自分の不調法ではあるけれども、成り行きというか自然というか、自然の中にそういう難儀な事が起こってきたと。すぐそこを安易に例えば戸を叩いて、「誰か紙を持ってきてくれ」と、おらんでもいいようなもんだけれども、そこを辛抱しようと、愈々寒はひどうなった。
 愈々寒うなった。便所の中で震いあがるようになった。けれどもさあここが辛抱のしどころだとこう、感じられた時に、外から紙を持って来てくれた人があった。同時にそれを境にぴしゃりとその、下痢が止まったとこういうのである。この辺は私は椛目流の信心で、頂いてみなければいけないと思いますね。如何に例えばそう言う様な自然の成り行きというものと、本気で対決しようとこう、元気な心を出したときです、おかげを受けるのは。これは私がいつも言うでしょうが。
 成り行きを大事にしなければいけませんと。どういう例えば難儀な事があってもね。それが自然にそう起きて来たのであるから、いわゆるそれを本気で受けて立たせて頂こうと、腹を決めるときを。自然と対決する時を。神様はそれは神様のお力を持って、知恵を持って働きを持ってすればです。例えば私共を、まあ自然と対決しというたら、いかにも自然と堂々の力を持って、これに取組み合う様にあるですけれどもね。
 この取り組み、その氏子がそれに、取り組もうとする。その元気な心に神様がです、おかげを下さる。取り組もうとするその元気な心に、氏子の助かりがあるのです。ここんところを、本当に分らなければいけないと思うのですね。私共は例えば日々の中に、どういう難儀な中にあってもです、ね。それが自然に起きて来たことなのだから。ね。これを受けて立たせて頂こうと。
 これをひとつ元気でいうなら有難く受けさせて頂こうと。それはどんなに寒かっても、もう、震え上がるようになっても、よしさあここが辛抱のしどころだと言う様にです。その、自然のことと立ち向かうということ。これに受けて立つときに、例えば神様がですね。それを例えば、大人と子供が相撲を取るようなものなんだろうと思いますけれども、子供でもです、大人に向かって立ち向かおうという時にです。
 「はあ、お父さんが負けた」と、大人がやるようにです、その元気な心におかげを下さることが出来るような、そこのところを神様は願うておられる。氏子はその願いをそういう思いをです、例えば教祖の神様は、そういう時にままよという心になれよ、ままよとは死んでもままよのことぞと言うような気持ちで、これにとり向かう。そこに自分の徳というものが受けられる。
 私共はその難儀というものをすぐ、安易なほうへ見やすいほうへと、それを流してしまう。これではいつまでたっても、私共の助かりの場というものは、生まれてこない。いつまでたっても。ね。その心の折角信心させて頂くのですから、そういう時にそのことをです、ね。自然といわば成り行きと、自然と対決するということなんです。対決することによってです、それは神様の働きなのですから、神様がねじろうと思えば、ねじりつぶしなさることも出来るだろう。
 けれどもその、立ち向かおうとする、その元気な心にです、神様がですおかげを下さる。ね。ある人が紙を持って来てくれた。お繰り合わせを頂いたということではなくてです。その時にはすでにもうさすがの、その下痢がです。ぴしゃりと止まったと、書き留めておられる。そのことをです、例えば今日私が言う成り行きを大事にするとか、成り行きを対決という場においてです、本気でそれを受けて立とうというような心がです、おかげを頂いたものとは、悟っていられなかったかもしれないけれどもです。ね。
 その話の中から、そう言う様なものを感じるじゃないですか。ね。私達がもう例えていうなら、紙がなからにゃもう寒うしてこたえん。もうすぐ誰かを起こして「紙ば持ってきてくれ」と。言うならばおらぶ様なことをしているのじゃなかろうか。それではいつまでたっても下痢は止まらん。例えていうならば。辛抱させてもらおうと。愈々寒くなってきた。もうたまらん。と、
 そこをもう辛抱さしてもらおうと、こっちが元気を出したときです。すでにおかげは受けておられる。次にいわばそれは次のおかげは力なのである。神様の働きの間違いなさを、もう心に嫌というほど感じるときである。なるほど辛抱しぬかなければ、お徳は受けられんな、力は受けられんのということを、悟られたであろうとこう思うんですね。私共は、その信心させて頂く者がです、ここんところを大事にする。ね。
 それをすぐ安易なほうへと。日頃しっかりそこんところの信心の稽古、いわば修行の楽しみと言った様なものが身についてきよらんとです。そげん時にさあなら、まあ二時間でも三時間でも便所の中で、その頑張るぞと言う様な心を起こってこんのです。ね。如何に例えば、その様なことの中にでも、御神意があるかと。深い御神意があるかということが分るでしょう。
 ちょっと難儀な問題が起きてくると、もうその難儀な問題をただ、助けてください。助けてくださいと言うばっかり、どうぞ誰かが紙を持ってきてくれますごと。と願うばっかりではつまらんのです。何時間でもよし。神様がさせて下さる修行ならさせて頂きましょうと。寒さの中にです元気な心出すところにです。その心に神様がお働きを下さるのです。そこからもう早く出たい。早く脱却したい。
 早く楽になりたい。それではいよいよの時には力も受けられません。いわばその下痢が根切れのおかげになるといったような、おかげにもならん。ね。ただ紙を持ってきてもろうた。お繰り合わせを頂くというだけではです、つまりませんでしょうが。ね。私は信心とはそういうところに。椛目ではそこんところを私が、徹底して説かせて頂いておるのでございますから、お互いが。
 そういう場合に直面したときですたい。ね。新たにでも、これにすがろう、といったような思いをしてです、元気な心を喪失することなくです。そいう時に、ままよというドン腹すえてです。本気で神様に打ち向かうということ。それが、自然と、本気で対決をしようというような元気な心。対決したところでです、自然に勝つことは出きんにしても、その氏子の元気な心に。
 神様がおかげを下さることが出来る。氏子はそう言う様な体験を積んでくれて、初めて氏子の助かりがある。ね。どのような場合でもそれに元気に立ち向かうという、氏子のその心をです、神様は、願うておられるのですよ。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと、仰るのは、そう言う様な心を作っていってくれよと言う事だと、私は思うのですね。
   どうぞ、おかげを頂かれてください。